多賀の今昔:投稿(益子昭五:電気S28卒)

投稿

多賀の今昔

益子昭五 (昭和28年電気科卒)

多賀の地は青春の血

官立多賀工業専門学校(戦争中は多賀高等工業学校)通信科昭和23年入学

国立茨城大学工学部電気科・昭和24年入学・28年卒業(第1回卒)

住所:多賀郡多賀町      現住所:日立市中成沢町

 多賀工業会会員は、一生この学校名を背負って生きている。(代議士が学歴を偽り辞めるほど、学校名とか学歴は大切なのだろう。)

 青春ここに集い来て・・と寮歌にある。心を多賀の地に残している同窓生たちに、祝福の花が咲きますように。

多賀工業会会員に乾杯!

 僕は上記の5年間は、水戸の寮と吼洋寮から学校に通った。それから、サラリーマンを65歳で退職した後の平成10年、長男が日立製作所勤務なのと、海が好きで、再びこの多賀の地に舞い戻った。現在75歳である。

 人は学歴・性格・家庭環境などの自分が持つ背景と、その都度つどに意志決定をしながら人生を歩んでいる。この中で最大の不思議は、人との出会いであり、タイミング(環境・時代も含む)だと思う。

 偶然か必然かの縁で(例えば、僕らの時には、埼玉大や宇都宮大には工学部がなかった)、同窓生はこの多賀の地に集った。そして今はこの流れの中にいる。僕は、多賀に来なかったなら、少し違った人生だったかもしれないが、結果は同じようだと思う。

53年前の工学部玄関
(事務等への入口)
53年前の水戸本部正門
(門の前は一面が芋畑)
現在の工学部正門
(学校の周りは蟻の這出る隙間も無いほど住宅が密集している)

 17歳から22歳の青春真っ盛りで、多感な時をこの地で過ごした。一番の思い出は常に腹が減っていたこと。

 寮の先輩が盲腸になった時、多賀病院にリヤカーで連れて行ったこと。日立港に鯨が迷い込んで見にいったことなどなど・・思い出は尽きない。

 失ったもの、忘れかけたものの中から、自分の心や生き方を掘り起こして過去を眺めると、多賀は僕にとって青春の血が流れた大切な土地である。

 昭和28年当時の53年前は、なにしろ日本中が貧しく食糧難だったので、食うことと豊かさを求める行動が中心であった。
 日本が経済世界2位の豊かな国になった現在のキーワードは、自分・心・生き方だそうである。このキーワードを中心に、同窓生に僕の見た多賀の今昔を随想で紹介したい。

 写真を整理し始めたら、この文を書く気になった。これがヒントになって同窓生が青春時代の元気な心に戻ることを期待して。

多賀の全景

 多賀郡多賀町が日立市に合併され、大学の住所は日立市成沢に変わっている。昔ながらの場所に広さも同じくして大学がある。

 多賀の地は、太平洋に面した僅かばかりの平地と、直ぐ近くまで迫る山の町である。関東平野から離れること15km、漁村と鉱山の町から日立製作所の発展と共に100年かけて20万人都市の一部として膨張を続けてきた。

 この町は、戦争中に米軍の艦砲射撃で溶けた鉄骨が今でも残る多賀工場から、戦後の建物まで、古そうな建物が多い。5階以上の建物は少なく、工場関係なので、渋く古ぼけた色の町である。(昔の寮のトイレの壁に、艦砲射撃で死んだ先輩の血がついていた。)

 街全体が、工都日立の名のように、日立製作所の城下町であることを常に実感させられている。僕の住む団地は、多分70%は日立関係者であり、博士もいて、有名大学出身者が多い。
 日立製作所とその関連会社、社宅群、一般住宅で、これ以上住む余地が無いくらいに溢れている。それに、工場や家が無秩序に建てられ、一貫した道路は6号線と245号線のみでこれ以外では隣町に行けない。道路の混雑が激しく、いつでもBUMPER to BUMPER である。

 「多賀の町を住みよくするには」の町のアンケート調査があったとき、東海村の原子力会社勤務の人は、「多賀工場が駅から離れ山に移ることだ」と言った。僕も賛成である。未来は、漁港として大甕にある日立港が整備され外国船も入ってきているので、海関係には展望が期待できそうである。

 僕の住む塙山町は、多賀駅から2km、河原子から4kmの山をならして30年前に開拓された1000軒の分譲地である。下の写真は海がよく見えるこの海抜100mの地より写した。このような住宅団地が山側に7つほどある。

 天気の良い日の黒潮おどる太平洋は、漁船や定期運搬船などが散見され、すばらしい絵となる。

 街に53年も前の面影が残っているのは、大学の運動場と、河原子海岸の烏帽子岩のみである。引っ越してきて新たな発見ばかりしている。

高台の塙山町から河原子海岸方面を望む
高台の塙山町から日立シビックセンタ方面を望む

多賀の街

懐かしい多賀駅と日立駅は、駅前道路が広く変わっている。しかし、両駅とも1階建てで、今も貧相な駅舎である。(日立駅は駅上改札になり海側通路が出来る予定で立派になりそうである)

現在の日立駅

国道6号線まで、この立派な桜並木が続いている。20万都市唯一のきれいな駅前通りである。

この近くまで遊びにきて、女子高を横に見て、寮に高下駄で歩いて帰った。

現在の常陸多賀駅

工専入学時、寮の上級生がむしろ旗を持って迎えに来てくれた。     
駅のすぐ裏が多賀工場。

 寮歌に、”黒潮吼ゆる東海の青とう白砂をかむところ・・”とあるが、今の多賀の、鮎川・河原子・水木海岸は、いずれも風化が激しく至る所にテトラポットで岸壁の崩れを抑えている。昔の自然は少なく、見栄えは悪い。

 河原子の海水浴場は、昔も今も茨城・栃木・群馬に住む人の海水浴場である。 晴れた日のこの海は河原子ブルーとなり、誠に美しい眺めである。

河原子海水浴場
河原子漁港と烏帽子岩

 在校生が卒業する3年生を、荒波の太平洋の海に投げ込んだのは、河原子海岸の烏帽子岩の近くであった。工専1年の終わりの寒い3月に、在校生が海に向かって2列に並び、卒業生を手渡で順に海に投げ出したのである。泳ぎのうまくない僕は海の深い場所を指示され苦労したことを覚えている。親の庇護から独立し、社会に出る心構えとして、黒潮おどる太平洋へ飛び込む心意気を持った行事である。

 言葉はアクセントや訛りがひどく、孫を始め息子まで茨城弁になっている。ダンスの練習中「チガッペヨ」と吼洋寮のダンスに来たことがある,と言ったバアサンに言われている。

 日立製作所の関連者が多く住む街とは、サラリーマン家庭が多いことである。全国平均より高い給料で安定した生活が保証されていることと、他の都市との交通の便がわるい土地柄もあってか、封鎖的社会を創り保守的行動や儀礼を重んじる人が多いようによそ者からは見える。

 僕は魚は好きなほうではないが、引っ越してきてからは、新鮮な刺身が好きになった。

 その他、小さな地震が多い、至る所が坂道なので自転車利用が限られることなどが街の特徴といえる。

学生気質

 京都大の森毅先生が「今の学生は、自分をのばすのは自分という気分は少なく、内面のあり方が家庭環境で大きく変わるのが問題だ」と言っている。

 また、日本青少年研究所の2005年度、日・米・中・韓4カ国の高校生を比較し「大事に思うこと」の調査結果は次のようである。

 ①:希望の大学に入ること30%、
 ②:勉強がよくできる生徒になりたい40%、
 ③:食べていける収入があればのんびりと暮らす25%で、米・中・韓に比べ半分以下だという。

日本の高校生は現在志向で、他の国は未来志向だとの結論である。大学生もこの延長線上にあり、現在志向形と思える。

 僕らのときは希望としては、他の国並みの数値であったと思う。
 現在は大学全入の時代で、特に工学部希望者は20%と少ないそうである。さらに今の学生は、社会に出てからも、後のことも考えずに不満があると退職するとか、ニート族など僕等の時には考えられない。

 僕はなぜ多賀に来たかをいまさら考えてみた。親父の考えが出世するには高学歴が必要であること。さらに、手に職を持たないと食べてゆけないとの事で兄弟は皆工学部である。それに僕としては、成績のレベルが多賀相当で、学問が特に好きではなかったが向上心は強かったからである。  
 今の人は学校に何を求めているのだろうか。僕からは数多くの人が無目的・惰性の風潮が強いと思えるが。

電気科卒業時の寄せ書き:社会にでる心構えも今とは違う?
休み時間:皆が制服着用

卒業50周年行事の時だったかに、同級生と電気の実験室を見学した。昔に比べきれいに整頓されていた。説明の先生が、「配線するのも勉強なのに、今の学生は感電すると学校の責任になるので、この通り結線しておくと言っていた。  メガーを両手で掴み何時まで我慢できるかなんて遊んでいた時代とは大違いである。

学生生活の変化

 僕らの青春は、前半は戦争の災禍で、後半は戦後の混乱の中での学生生活である。パールハーバー(真珠湾攻撃)から38度線(朝鮮戦争)、皆が,食べ物も着るものもなく貧乏であった。それが年毎に豊かさを回復していた時代であった。(昭和29年まで米の配給があった。)

 水戸本部内にあった寮にいたときの思い出は、正門前の畑で芋を買って寮で煮て食べ空腹を満たしていた(人によっては夜中に失敬していた。現在は日本有数の干いもの産地になっている)

 それでも若さだけはあり、ダンスやマージャン・囲碁をやり、社会に出てからは、先輩からアプレゲール(戦後派)と呼ばれる行動もとった。今の学生とは異なり集団遊びが多かった。

 その後日本は世界第二の経済大国になり、さらにバブルがはじける変化をした。それまでの学歴社会や年功序列の考えは、実力と成果主義の声の合唱へと変わった。昔だって最後は実力社会である。

 現在の学生は、IT技術の目覚しい進歩があって生活習慣は変化し、経済の豊かさによって人生の目標までが昔とは違うようになったと思える。

現在の吼洋寮入口:昔の門柱であるが看板は無い
寮の同室の人たち:昔はいつでもこんな格好をしていた
工専通信科の寮生:先生はサンダルと下駄履き、生徒は高下駄、裸足もいる(旧制水戸高校からの人はマントに高下駄)

 僕はずーと寮生活だったので、学校と寮の2つの思い出がある。特に工専での最初の寮生活は規則ある集団生活で、絞られた事は忘れない。

 現在の吼洋寮は、4階建て2棟のアパートとなっており、昔の西と北寮は職員住宅となり、フエンスで区分され、その分狭くなっている。但し門は昔のまま、食堂跡は鮎川河原にもどり葦が茂っている。

現在の工学部:建物と学生

今の学生は、ジーパンにリュックで帽子はない。僕らの時は、工専のときは黒バンドをした丸帽子であり(旧制水戸高校生は白線の入った帽子)、大学は角帽をかぶっていた。この姿に、高下駄を履き日立市内や水戸大工町を歩いた。

 ともかく、経済と科学の発達、さらにはグローバル化と変化した今と、50年も昔のことを比べること自体が無理なようである。
 現代学生は、今の言葉で言えば、パラダイムシフトしており、コンセプトは大きく変わっている。電気の言葉だと、位相が変わったのは確かである。さらに言えば、僕等の時は日本中が中流社会を目指しており、これを正弦波とすると、現代の個性重視の教育によって、第3とか第5高調波が混じり複雑系へと変化してきたと思える。このことは必然的な時代の流れで、人間としてどちらがよいかは後世に結果が出る。

学校で得たもの(リゾルートで生きる)

僕の好きな言葉に、[決然として・凛とした]という意味の、「リゾルートRESOLUTEで生きる」がある。

 行く年来る年を75回も繰り返すと、頑張りきれないことは起きる。僕はNEVER GIVE UP の精神だけでは耐えられないことが起きると、GIVE UP し、じーと時の過ぎるのを待つことにしている。そんな時、心だけは凛として生きるのだとの意志がないとつぶされてしまう。この気持ちさえ持てば、どうにか生きて行けると思って、今を過ごしている。

 さてこうなると学校で何を得たのかに疑問を持つ。
 確かに学生時代は青春真っ只中の思い出はある。しかし、今となって学校は長年の風雪で遠く薄くなり、目先の生活中心で生きている。今付きあっている人だけが、学校を思い出させてくれる。・・・ただそれだけなのだろうか。

 そこで学校を卒業して、現実に何を得たかを考えてみた。

 メリットとしては、卒業時の入社試験が、大卒15名(旧制大学と新制大学合わせて)、高卒50名、中卒100名採用の中の大卒のランクに入ったこと。さらに、入社試験で「電気の過度現象」の問題が出たが、山が当り試験に通ったことである。その後は、大卒としての意地かプライドをもって、仕事に取り組む姿勢を持たせたことであったと思う。

 でも今考えると、特に頑張ったわけでもない。頭も度胸もなく、社会の抵抗勢力にも入れず、平凡に社会の流れに竿さして生きてきた。これは僕の持って生まれた性格の石橋をたたいて渡る生き方なのである。

 例えば当時も就職難であった。入社試験の書類試験は、成績表に「可」があるとダメで、優の数が良の数より多くないといけないと先生が言った。そのため、可になりそうだと試験答案を出さないといった、小心な性格は後々まで続いている。(今でも必須単位不足の夢を見る)

 水戸本部での倫理学か哲学の授業は、当時共産党の思想の中心になっていた旧制水戸高校の梅本克己先生であった。先生が唯物主義者になるかどうかの分かれ道の考え方を、黒板に書いた図を今でも思い出す。

学生時代の多くを忘れているが、こんなことを「考える種」は養われていたようである。

 改めて思うことは、人生の勝者はお金・名誉・地位ではさらさらないし、やさしい心とか、ボランテアをやるのもよい。しかし、人生の敗者にならないために、心に秘めた凛として生きる姿勢「リゾルートで生きる」を持てるかどうかであると思っている。

 同窓生、特に老いた人たちよ、心は錆びていくより、磨り減ってゆく方がよい。(限度内で) そして、体や環境に合わせた気楽・適当さ(その場に合ったいい加減さ)をもって生きることをお勧めする。 今寄せ書きするならば「リゾルートで生きる」である。 精神的に崩れないように決然と生きたいものである。これが多賀での成果なのだろう。
 これからの人生、ゆっくり丁寧に生きようと思う。